何でも半々

何か自分の考えを言った時に,賛成してくれる人と反対する人は半々と考えておくと良さそうです。もちろん,実際には,賛成,反対は,きれいに50%ずつになるというわけではありません。賛成の人がいれば、必ず、反対の人もいるということです。

で,時々ですが,「反対されるのが嫌だ。だから自分の意見は言わない。」という人がいらっしゃいますね。自分の意見を否定されるのが耐えられないという感じなんでしょうか。あるいは自分の意見が絶対に正しいということを信じていらっしゃるからでしょうか?でも,嫌であっても,嫌でなくても,かならず反対する人がいる、それが普通だということですね。

現実の世の中は,いろいろな人の集合体です。ひとりとして同じ人はいません。なので,それぞれの人で意見が違うのがあたりまえですよね。「これが良いと信じること」も,みんな違っています。それが正常ですね。

だから,「自分が信じていること」、「自分はこれで間違いないと思っていること」についても,「そんなことは信じない」、「それは間違っている。」という人は必ずいますね。それはおかしなことではなくて、普通だということです。

みんなちがって当たり前

世間を知らない若い時には,「これは絶対に正しいのだから,みんなが、この意見に賛同するはずだ。」と思いこみがちです。でも,いろいろなことを勉強すればするほど,世間にはいろいろな意見があることがわかります。言いかえればいろんな人がいることがわかります。

そうすると、「100%の人を納得させることは出来ない」ということが自然にわかってきます。この「100%の人を納得させることは出来ない」という当たり前のことが腹落ちすると,ずいぶん生きやすくなりますよね。

たとえば自分のことを全く認めないという人がいたとしても,それは自分が悪いわけではありません。自分がどんなに頑張っても,どんなに努力をしたとしても,「あんたは認めないぞ」という人は必ずいるわけです。

100%の賛成は無い

これは世間で「あの人はすごい人だ!」と評価されている人でもそうです。まあ、「世間」と一言で言っても、実は「世間」という言葉自体、あいまいな言葉です。「世間」イコール「世界のすべての人々」ではありません。世界中のすべての人が100%評価するなんて人は,この世の中には存在しないと思います。

なので,自分を認めない人のことを気にする必要はないですね。若い時には,人から反対されたり,認めてもらえないことを何となく苦にしてしまうことってありますよね。あなたは、そんなことはありませんか?私はしょっちゅう苦にしていました。

認められなくても苦にしない

でも,人生経験を積むうちに,どんなに頑張っても100%の人に納得してもらうことは出来ない。それはどんな人でも出来ない。それが実感としてわかるようになってきました。そう思うと,とっても生きやすくなりましたね。

なにも世界中のすべての人と仲良くしなければならないということはないわけです。もちろん,世界中の人が仲良くするのは本当に良いことだと思います。でも、世界中のすべての人が仲良くするというのは、現実には無理な話です。人間には、必ず好き嫌いはありますし,相互に受け入れられないものも、必ずありますね。それが自然です。

問題は,どの程度まで許容し,どの程度まで拒絶するかということですね。完全な許容と完全な拒絶の間には,無限の選択肢がありますね。このブログで、いつもよく書いている100とゼロの間の話です。

100とゼロの間

世間では,「100かゼロか」その両極端の話ばかりしています。その方が話がわかりやすいし、刺激的で面白いからですね。「適当なところでやっていく」という話はわかりにくいですし,当たり前すぎて,おだやかすぎてつまらないんですよね。

でも,現実には100とゼロの間のどこか適切なバランスのところで、人々の生活は安定するわけです。そういうまっとうな話が、なかなか中心になっていかないところが、最近の世相という感じでしょうか。何事も両極端は刺激的ですが、危険ですね。その間のちょうどよいところが,おそらく一番危険が少ないです。

自分の意見も偏っている

それと話は似ていますが,自分の意見というのも,たいていはかなり偏っていると考えておくのが無難です。で、冒頭の話に戻るのですが,自分の意見を述べた時に,全員が自分の意見に賛同するなんてことはないと思っておくのがよいわけです。必ず反対する人がいる、それが自然だということですね。

やるべきことは、その反対意見にしっかりと耳を傾けることです。そうしながら、100でもなくゼロでもないちょうどよいところを探っていくということになるんでしょうね。そうやることで,自分の意見も洗練されていきます。よりよい意見にブラッシュアップされていくということです。

そして,その議論の中で,ここだけは譲れないという部分もはっきりしてくると思います。そういう譲れない部分というものも,もちろんあってよいと思います。なんでもかんでも妥協する必要はないですものね。

譲れない部分もある

受け入れることはもちろん必要ですが,時には、明確に拒絶することも必要です。100かゼロかではないのですが,ここについては100かゼロだというところもあると思います。それらも含めて100かゼロではなくその中間の適切な場所を探るということです。

わかったようなわからないような話になってすみません。このあたり、ニュアンスは伝わったでしょうか?もっとわかりやすい文章が書けたらいいのですが、まだまだですね。さらに精進したいと思います。

とういことで,今日はこのあたりで。
最後までお読みいただきありがとうございました。


ムッシュスカラー


PS:「イエス」というのは言いやすいですが,「ノー」とはっきり言うのは案外難しいですね。特に,この人には嫌われたくないと思っている人には言いにくいですね。でも,これから末永く信頼関係を続けたいと思ったら,「ノー」という言葉こそしっかりと伝えないとだめなんでしょうね。

PPS:もちろん,世の中には,なんの逡巡もなく,どんな人に対しても「ノー」と言える強い人もいらっしゃいます。今日のブログに書いた内容など,「何をチマチマとめんどくさいことを書いているんだ」と感じるタイプの人たちです。いわゆる「鋼のメンタル」という人たちですね。私自身,そんなふうになれたらいいなと思うことがあります。でも。たぶん,一生そうはなれないんだろうなと思います。

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