平凡こそ非凡である

「平凡こそ非凡である」というのは、若い時に私の人生の師匠からお聞きした言葉です。

「平凡」というのは、スマホで意味を検索すると「特にすぐれたところがなく、ありふれた様子」と出てきます。その対義語は「非凡」です。意味は、「並のものよりずっと優れている様子を表す」と出てきますね。

なので、そもそもこの言葉自体が、矛盾しているようですが、そうではありません。

「平凡」というのは、文字通り、特別に優れたこともなく、毎日を平穏にというか、特別な事が起きずに過ごしているということです。「あの人は平凡な人だ」と言えば、世間や会社で目立つこともなく、特別に注目されることもなく、大勢の中の一人として、普通に人生を送っているというような感じでしょうか?

平凡な人、平凡な人生

毎日が、普通に始まって、毎日が普通に終わる。びっくりするようなことは起きてこない。平凡な人生というのは、これがずっと続くことですね。

もう少し言えば、毎年、お正月に年が明けたことをお祝いする、そして、1年間を無事に過ごして、大晦日には、今年も無事におわったねということで、除夜の鐘を聞く、これが平凡な1年でしょうか。

こういう平凡な生活をずーっと続けられることを、「平凡な人生」とするとしたら、実は、この「平凡な人生」というのは、本当はとっても「非凡な人生」ではないでしょうか。

なぜ平凡は非凡か?

なぜって、少し考えればすぐわかることです。

どんな人でも、毎年、毎年、ずーっと何も問題が起きないなんてことはありません。ほぼ、毎年、必ずなんらかの問題は起きてくるものです。

一番わかりやすいのは健康面ですね。健康面で全く問題のない人なんていないですよね。生まれてから、死ぬまでずーっと健康でいられる人など、ほぼいません。一生、健康であり続けるというのは、とっても非凡なことです。

また、学業、仕事、家事でも同じです。それらを、毎日、すべて無難にこなしていれば、周りからは、平凡に毎日を過ごしている人と見えますよね。可もなく不可もなく毎日のやるべきことをこなす人、そういう人は平凡な人なのかもしれません。

でも、あなたのまわりを見ていただいてどうでしょうか?そういう人って、実際にはほとんどいないですよね。どんな人も、みな何かしら問題を抱えているものです。そのために、平凡を継続することがなかなかできません。

平凡を続ける難しさ

平凡であり続けるというのは、実はとっても難しいことです。つまり、「平凡こそ非凡である」ということです。

こうやって、あらためて書いているとよくわかりますね。自分の感情のおもむくままに、いろいろなことを好きなように適当にやっていたら平凡を続けることはできません。また、逆に無理をして、体調を崩したら、やはり平凡ではいられません。

平凡でいるためには、怠けたり、無理をしたりしないですむように、日ごろからきちんと手を打っておく必要があるわけです。もし、それが自然に出来るのなら、それこそ、その人は平凡に見える天才だと思います。

平凡な職場

また、何も問題が起きない平凡な職場というのも、実は常に問題を起こさないように手を打っているということです。平凡に見える職場は実は非凡だったりするわけです。

プロ野球の選手でも、本当にすごい選手というのは、華麗なファインプレーをする選手ではないと言われますね。本当にすごい選手というのは、実はものすごく高度な技術でプレーしているのに、観客には、まったく普通にプレーしている(平凡なプレーをしている)ように感じさせる人だと聞いたことがあります。

本当にすごい選手

たとえば、普通の選手なら横っ飛びでギリギリ届くところの打球を、予測、反応がものすごく早いために、身体の正面でとることができる。だから、見ている方からすると、簡単な打球を処理しているように見えるというのと似ていますね。一見、簡単なことをやっているように見えて、実はとんでもなくすごいことを平然とやっている、そんな感じでしょうか。

まあ、話が少し飛躍し過ぎたかもしれませんね。でも、世の中を見ていると、決して華やかではなく、むしろ地味ですが、すごい人っていらっしゃいますね。

「平凡こそ非凡である。」

ちょっと思い出したので書いてみました。

 

ムッシュスカラー

 

PS:私自身は、小さい時から、表舞台に立つ華やかな人よりは、縁の下の力持ちのような人が好きです。まあ、両親を含め、まわりにそういう人が多かったからでしょうね。

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