インプットがあってこそアウトプットがある

アウトプットというのは
たとえば、このブログもそうですが
日常の中で何か思うことがあって、
「じゃあ、これを書こう」
「これをアウトプットしよう」
ということで書いています。

もし毎日の日常の中で、
何も思うことがなければ
このような文章は書けません。
つまりアウトプットは出来ないわけです。

一日中、何も思うことがない、
まったく考えることもない、
もし、そんな状態になったら
文章というのは
書けなくなるのでしょうね。

そのように、人が何かを思う、
日常の中で、何かを考える、
だからこそ文章が書ける、
そして、そのきっかけになるのは
やはり外部からの刺激です。

外部からの刺激が全く無い状態で、
何かを考え続けるというのは
なかなか難しいことだと思います。

外部からの刺激がなければ考えられない

この外部からの刺激ですが、
これにはさまざまなものがあります。

目から入ってくる視覚情報、
耳から入ってくる聴覚情報、
鼻で感じる嗅覚情報もそうです。
舌で感じる味覚情報もそうです。
肌で感じる触覚情報もそうですね。

そのような直接的な知覚情報以外に
自分で本を読んだり
ネットで情報を得ることも
外部からの刺激になりますね。

さらに、もっと大きな意味で言えば、
自分の周りの人間関係というのも、
持続的かつ大きな刺激になります。

まわりに人がいるというだけで、
その人から身体的であれ、精神的であれ
何等かの刺激は受けますね。
つまり、人間関係そのものが
外部からの刺激ということになります。

このように、
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの
直接的な刺激以外にも、
情報入手、人間関係など
様々な外部からの刺激を受けて
人間は何かを思い、何かを考えます。

刺激がきっかけで人間は何かを考える

そして、それをきっかけにして
あるいは題材にして、
情報発信をするということです。

ということは、何かしらの
情報発信をするということは、
その前の段階として、必然的に
外部から情報を入手している
ということになりますね。

つまり、人は、何かしらの
アウトプットをしている場合
その前段階として、
必然的にインプットをしている
ということでしょうね。

大量のアウトプットをしている人は、
大量のインプットをしている、
それが普通なのかなと思います。

もし、自分で、最近
アウトプットがうまくいかないなあ
などと思っているのであれば、
最近の自分のインプットが
どの程度だったのか、
そこを考えてみると
いいのかもしれませんね。

インプットとアウトプットは関係する

たとえば、
最近、人と会うことが減っていないか?
最近、本を読む量が減っていないか?
最近、ネットでの情報収集が減っていないか?

もちろん、上記以外にも、
インプットというものには
さまざまなものがあると思います。

つまるところ、多くの場合、
何かをアウトプットしたい、
そう思うのは、
何かをインプットして、
そのインプットしたことについて
自分の思うところを伝えたいからです。

たいていは、伝える相手は自分以外の人ですが、
自分自身に向けて伝えたい、書き残したい
そういう場合もありますね。
日誌、日記などは、
自分に向けてのアウトプットでしょうか。

もしも、何も思うところがない、
何も感じることがない、
そのような状態になってしまったら、
何かを言いたい、アウトプットしたい
と考えることもなくなります。

何かを伝えたいからアウトプットする

何も感じることがなくなってしまう、
何も考えることがなくなってしまう、
そうなれば何も言うこともなくなる、
自然にアウトプットもゼロになります。

逆に言えば、アウトプットが出てくるためには
何か思うこと、考えることがないといけない、
そして、そのためには、どうしても
そのきっかけになるインプットというものが
必要ということなのでしょうね。

ちなみに、外部からの刺激なしに、
つまり、何のインプットもなしに
自分の内面から自然に湧いてくるもの、
そのようなものが全くないとは言いません。

でも、そのよう内面的なものも、
よくよくさかのぼって考えれば
それまでに蓄積したインプットが
きっかけになっていることが多いようです。

そのように考えてみると
外部からのインプットなしに、
アウトプットが出来るということは
ほぼないのではないでしょうか。

ということで、アウトプットのためには
インプットが必要です。

アウトプットのためにはインプットが必要

私のように、会社を定年退職して、
人間関係が狭くなってくると
必然的にインプットも減ってきます、
そうなると、どうしても
アウトプットも少なくなりがちです。

また、さらに年齢を重ねれば重ねるほど
その傾向は強くなりますね。

何もインプットしなくなれば
アウトプットもしなくなる。
そうなれば、人生もほぼ終わりと
いうことになるのでしょうか。

そこのところを考えると、
インプットは死ぬまで続けていく方が
人生は面白いのかなと思います。

 

ムッシュスカラー

 

PS:今日のブログはそれぞれの言葉の定義がかなりあいまいです。一般的な言葉の定義からすれば、「外部からの刺激」と「インプット」は同じではありませんし、「アウトプット」と「情報発信」も同じではないかもしれませんね。でも、まあ、このブログは学術論文ではありませんので、そのあたりは日常会話の延長と思っていただいて、文脈で、ゆるーく読み取っていただければ幸いです。

PPS:ちなみに、人間のDNAには、自分の祖先からの刺激、つまりインプットが刻まれていると考えるのが妥当のようです。自分の祖先の長い歴史の中のインプット情報がDNAに刻まれて、それが遺伝情報として、現在の自分のアウトプットに何等かの形で反映しているのかもしれません。

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