「結論だけでなく、その結論に
いたるまでの思考の過程も
もう少し丁寧に説明してもらうと、
もっと、よくわかるんだけどな…」
会社に勤めていた時に、
そんなことを考えることがありました。
伝えてもらった連絡事項が、
頭にすっとはいってこないというか
何となくモヤモヤするような感じの時でしたね。
でも、こういうことは、身近な存在である
家族の間でも、よくある話だと思います。
たとえば
「今日から、この勉強をすることにしたよ。」
「今日から、このアルバイトをすることにしたよ。」
「今日、これを買うことにしたよ。」
と家族の中で話が出ることがあると思います。
家族はどう思っている?
その時に、それを聞いた家族は
どういうことを思っているのでしょうか?
「ああ、そうなの。わかった。」
それだけでしょうか?
「ええっ?なぜ、その勉強をすることにしたの?」
「ええっ?なぜ、そのアルバイトをすることにしたの?」
「ええっ?なぜ、それを買うことにしたの?」
と思ってないでしょうか?
たいていの場合、口には出さなくても
「ええっ?なぜ?どうして?」
というのは、考えていると思います。
もし、家族が
「ええっ?」と思わないとしたら、
可能性は二つです。
可能性は二つ、ひとつは…
ひとつは、よほど、家族の間で、
ふだんからしっかりと話がされている場合です。
つまり、お互いが考えていることについて
十分にわかりあえている関係の場合です。
その場合は、結論だけ言っても
「ああ、なるほど。わかる、わかる。」
という感じになるのだろうと思います。
もうひとつは…
もう一つの可能性というのは
お互いに関心がないという関係です。
お互いのことに無関心ということです。
そういう関係での
「ああ、そう。そうなんだ。わかった。」
というのは、さびしいなと思います。
最近の世間の雰囲気としては、
家族であっても、ひとりひとりが
独立しすぎてしまって、
「なぜ?どうして?」
と聞くのが難しくなってきているように思います。
家族の関係性がうすくなっている
家族の間で、すなおな言葉として
「なぜ、それをするのか、わからない。」
と伝えられないとしたら、
お互いのことがわかり合えないままに、
関係性がどんどんうすくなっていきますね。
そして気が付くと、
「ええっ、どうしてこんなことになったの?}
「ええっ、そんなつもりでやっていたの?」
「ええっ、そんなこと思いもしなかった。」
なんてことになりがちです。
なぜそうなるかといえば、
最初に、自分の意志を伝えたときに
わかりあおうとしなかったからですね。
「お互いのことを分かり合いたい。」
「わかりあえないことはさびしい。」
分かり合えないことはさびしい
こういう素朴な気持ちを
お互いに感じて、伝え合っていれば
びっくりするような事態に至ることはありません。
もともと、気心がしれている
家族の間でもそうですから
情報共有というのは難しいですね。
話が戻りますが、たとえば、
あなたが会社で、結論だけ伝えられて
「なぜ?どうして、そんな結論に?」
という思いを持ったのなら
「すみません。なぜそうなったのか、
そこにいたる過程を教えてもらえませんか?」
と、声を上げるのがベターだと思います。
声を上げるのがベター
ただ、現実の会社などの組織では
「いや、結論だけ知ってくれればいい。
なぜ、そうなったかについては共有できない。」
と言われたりするかもしれませんね。
特に秘匿性の高い情報や、
その情報に伴う決断の場合は
そうなる可能性はあります。
ただ、そのような場合でも、
疑問に思ったなら、一度は
「どうして、そういう結論になったんですか?」
と、聞くだけは聞いてみるといいと思います。
それだけでも違うと思います。
それをせずに、
「はい、わかりました。」
だけですませると、一方通行で、
何か釈然としない気持ちのままで
終わってしまうのではないでしょうか?
釈然としない気持ちのままでは…
逆に、自分が伝える側の立場であれば、
結論を伝えることはもちろんですが、
なぜ、そういう結論にいたったのか、
その思考の過程についても
ぜひ、伝えるといいですね。
それをすることで、
聞いている人が
腹落ちしやすくなると思います。
結論の共有だけではなく、
結論にいたる思考の過程の
共有というのがおすすめです。
出来ていそうで、実はなかなか
出来ていないことだと思います。
チャレンジしてみてはいかがでしょうか?
ムッシュスカラー
PS:情報共有というと、会社、仕事を思い浮かべますが、家族の情報共有というのも大切です。会社を定年退職してから本当にそう実感します。