目の前の人

とある事情から,ひさびさに,仕事で多くの人とリアルで(対面)でお会いしました。ここしばらくは,リモートによるコミュニケーションがほとんどでしたので,ちょっと新鮮でした。やっぱりリモートのコミュニケーションでは得られないものが,リアルでのコミュニケーションでは得られますよね。

実際に目の前に,体温のある人を直接感じると,その人の心というか感情というか,そんなものが伝わってきますね。

もちろん「心,感情」というのは目に見えません。唯物論からすると,『物質としての存在が証明できないもの,つまり目に見えないものは,存在しないもの』ということになるそうです。そうなると,唯物論からすると「心,感情なんてものは無い」ということになるんでしょうね。(まちがってたらすみません。)

「心,感情」は無い?

でも,ほとんどの人は「心,感情」という目に見えないものが実際にあると認識していますよね。

「私には心がない」という人は,私の知る限りはいません。でも,「あなたは心を見たことがありますか?」と尋ねたとしたら(実際には,そんなことを尋ねたことはありませんが)ほとんどの人は,「見たことはない」と答えられると思います。

また,「心,感情はどこにありますか?」と尋ねても,「ここにあります」と答えられる人は,まず,いません。時々ですが,「心,感情はどこにありますか?」と尋ねられて,胸とか頭を指さす人はいますよね。でも「では胸のどこにありますか?頭のどこにありますか?」と言われたら,答えられる人は,まず,いないとおもいます。

証拠(エビデンス)

この「人の心,感情」というのは,目に見えないものです。なので,「心,感情」が存在することについて,証拠を出せと言われても難しいですね。しかし、「見えないものだから」あるいは「証拠が出せないから」という理由で,「心、感情」などというものは認めない、という人はほとんどいらっしゃいませんね。

証拠(エビデンス)というのは,今のはやりの言葉ですが,万能ではありません。証拠がなければダメだという理屈も,すべてにあてはまるものではないんだろうなと個人的には思います。

だからこそ,「心,感情」に対しては,出来る限りの、最大限の注意をもって大切に扱っていかないといけないんだろうと思います。(扱うという言葉が適切かどうかはわかりませんが…)

大切にしたいもの

ほとんどの人が「心,感情」を持っています。というか、持っていると認識しています。にも関わらず,「心,感情」というのが目に見えないために,多くの人が,「心,感情」を大切にせずに,ぞんざいに,粗末に扱うということが多いような気がします。

私の場合は,自分を含めて自分に関わるすべての人について、可能な限り、その「心,感情」を大切にする,そう思って毎日を生活しています。というか、生活しているつもりです。

ただ、そうは言っても、実はこれは、ものすごく難しいことなんです。本当に難しいですよ。

目の前の人の「心,感情」はある程度は(本当にある程度だけですが)理解することが出来ます。ですが,ふと気が付けば,知らないうちに、目の前の人の「心,感情」のことは、どこかに飛んでいってしまっています。そして、たいていは自分のことばかり考えています。目の前の人の「心、感情」を大切にするよりも、自分の「心、感情」ばかり大切にしている、そんな自分がいるというのがよくわかります。

自分の目の前の人

自分の目の前の人の「心,感情」を常に良いものにしていく。つまり、目の前の人を幸せにしていく。それが出来る人は,本当にすばらしい人だなと思います。そういう人がいらっしゃれば、心から尊敬できますね。まあ,自分としては、それがなかなか出来ないので,毎日,意識をして,頑張っているというところです。

さて,あなたの目の前の人の「心,感情」はいかがでしょうか?目の前の人の「心,感情」は,多少なりとも幸せを感じていらっしゃるでしょうか?その人の幸せのために,何かされていることはありますか?

たまには、こういうことを考えてみるのもいいのかなと思います。

 

ムッシュスカラー

 

PS:会社の定年退職の時のささやかなセレモニー(リモートでしたが)で最後に一言コメントをどうぞ,と言われて述べた言葉が「自分がいつも心掛けてきたことは目の前の人を幸せにすることです。」でした。出来ているかどうかは別にして,考えていることは今も変わりません。

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