年を重ねれば重ねるほど
思うことがあります。
それはどんなことかというと
「真実はひとつ…ではないのかも」
ということです。
もちろん、合理的に考えれば
真実というのはひとつだけ
というのがあたりまえです。
一方で、事実という言葉があります。
この言葉は物理的な客観的な事象
とでも言うのでしょうか、
数値などのデータが代表的なものですね。
その「事実」に対して、
「真実」というのはニュアンスが違います。
それぞれの人間にとって
それぞれの人の「真実」は確かに一つです。
でも、それを、すべての人が
その人と同じように共有できるか?
というと、そうではないようです。
事実は一つでも真実はその人次第
たとえば、
あなたにしても、わたしにしても、
客観的な事実は一つであっても
それを自分にとっての真実として
どのようにとらえるか?
それは、その人次第です。
たとえば、二人で、
同じテレビ番組を
同じ部屋で最初から最後まで、
同じように見ていたとします。
見ている情報、環境は全く同じです。
そんな場合でも、
その番組をどのようにとらえたか
その番組からどんな感じを受けたか
その番組の内容をどのように自分に取り入れたか
そのようなことは、
二人の間で違っていると思います。
これは最も身近な人間関係である
夫婦であってもそうなります。
長年連れ添ってきて、
お互いのことは、裏も表も
十分に知っている間柄です。
そういう間柄であっても、
どうしても理解できない部分というのは
どこまでいってもあるものです。
夫婦の間でもわからないことはある
いわんや、それ以外の人については
その人のことをわかっているつもりでも
実は、ほとんどわかっていない、
そういうのが日常茶飯事です。
また、これもよくある話ですが、
我々は、どうしても、
自分にとっての真実というものを
他人にも押し付けてしまいがちです。
というか、自分では、押し付けるなんて
そんなおこがましいことはしていない、
そう思っている場合でも、
知らない間に、相手に同意を
求めていることがあります。
人に何かを指導する時でも、
自分が真実だと思っていることを、
「これが真実だから、あなたもそうしなさい。」
と知らない間に強制していることがあります。
自分にとっての真実と、
目の前の人にとっての真実は、
ずれている可能性があります。
そこは気を付けないといけませんね。
ただ、どんなに気を付けていても
そのずれが完全になくなるわけはありません。
それは認めざるを得ません。
真実のずれは必ずある
でも、ずれがあるのが嫌だからといって
まったく何も指導しないのも
どうかということです。
どうしても避けれらない
違いやずれがあることを前提に
良いと思うことは勧めればいいし、
指導すべきは指導すればいいですね。
どうせ、自分と他人とは
完全にはわかりあえないのだから、
人間関係なんてめんどくさい、
だから、誰にも会わない、誰とも話さない、
それでは、あまりに寂しいですよね。
わかりあえないのはあたりまえ、
だからこそ、少しくらいは
わかりあえるように、
人間関係をつくっていく、
人と会って、話をして、連絡もする。
こっちのほうが、人生、楽しそうです。
人生楽しい方が良い
「自分の人生、こうあるべきだ」
そう思うのはとってもいいことです。
でも、それを他人に押し付けるのでなく
自分以外の人の真実についても
ゆったりと話を聞いて、
「なるほど、そんな考え方もありだな。」
というくらい、おおらかに、
生きていけるといいのかもしれませんね。
なかなか実行は難しいですが、
そんなふうに生きていければ
人生は楽しいだろうなと思います。
ムッシュスカラー
PS:「どう生きるか」なんてことをいうと、何か哲学者のような感じですが、普段はそんなことは全然考えていません。目の前のことをやるだけですね。そのなかで、ふっと思うことを、ブログに書き留めています。このブログは、人生のメモのような感じですね。
PPS:今の世の中、本当にいろいろな人が、本当にいろいろなことを言ってます。もはや、きりがありません。とりあえず、それぞれ、みんな、自分が正しいと思って言っているということです。まあ、すべて、その人にとっての真実だと思っておけば、嫌な感情を使わなくて済みますね。